今年の夫の誕生日ケーキはレッド・ベルベット・ケーキです。アメリカでは親しみ深いこのケーキを、フランス人の夫はヴィクトリア朝にまで遡って断固イギリスのものだと主張しますが、その辺りは有耶無耶にしておく方が無難でしょう。せっかくの誕生日ですから。
レッド・ベルベット・ケーキは、ベルベットのようにしっとりと深い真紅のココア生地を、チーズやバターをベースとするタイプのクリームで重ねて行きます。
今日では着色料を用いて真紅に焼き上げますが、元来の生地は当時のココアパウダーの製法技術上、ケーキ作りの過程で何らかの化学反応が起こり生地が紅く発色したのではないかと言われています。
ビーツなど自然の素材によって紅く染め上げる方法もあるようですが、バンホーテンにより開発されたアルカリゼーションがもたらす安定したココアパウダー。その恩恵を受けて美味しい生地を焼いているわけですから、そもそも紅くしようと言う魂胆が矛盾しているのです。
何はともあれ、チョコレートの生地にヴァニラの香りが加えられると、あるノスタルジアに駆られます。何故ならば、それはフランス菓子の香りでは無いからです。
20代前半の頃だったでしょうか。私が夏と冬の休みを過ごした竹富島には、八重山諸島の染織文化の調査の為に、アメリカから研究者のアマンダ・スティンチカムさんが度々訪れては、我が家に遊びに来ていました。
当時の島でのケーキ作りと言えば「モントン」のチョコレートケーキミックスと、ようやく手に入る植物性のクリームを使ってのデコレーションで精一杯でしたが、このインスタントなチョコレートケーキは私達のお気に入りでもあったのです。
ある夜の事、私はキッチンのオーブンが奇妙な音を立てている事に気付きましたが、その時にはすでに、チョコレートのスポンジはすっかりボロボロに焦げ付いて無残な姿となっていました。
代わりのデザートなどありません。一週間に一度、高速船で隣りの石垣島に出かけて行き、一週間分の食料や生活の備品を買い揃えておくような生活です。ちょっとした甘いものを買いに行くには翌朝一番の船に乗るか、又は夕闇の迫るジャングルの中をパパイヤかグァバか何かを求めてさまよい歩くかです。
私は安全な家の中で安定したバンホーテンの甘いココアパウダーを植物性のクリームに加え、そこにナイフで叩いたミックスナッツを混ぜ合わせると、ボロボロになったスポンジケーキに塗りたくり、やがてすっかり覆い尽くしました。
非常にワイルドな様相のこの目新しいデザートに、父はギョッとしていましたが、平静を装う私の目の前で、普段はとても控えめなアマンダさんは目を見開き、力強く囁きました。
「こんなに美味しいチョコレートケーキを日本で食べたのは初めてですよ」
ちょっとザラザラしたスポンジ生地に、たっぷりの甘いチョコレートクリームとナッツの感触は、計らずもアマンダさんの故郷のケーキへのノスタルジアを駆り立てたのかもしれません。
ところで、昨今はより旧式な製法であるブロマプロセスによるココアまでもが入手可能となっているようです。果たしてココア生地がその過程で自然と紅く発色するのか、検証する事も可能でしょう。
しかし検証自体にはどうも興味が湧きません。あるいはヴィクトリア朝時代に食べたレッド・ベルベット・ケーキの美味しさが忘れられない、という人が現れれば話は別ですが。
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