緋色の河津桜も散り、染井吉野の蕾が怪しく色付き始め三月も終わります。凍てついた大気は雨に変わり、風強く、暖かい陽射しに油断した心身に北風が嘲るように斬りつける日も。春は動揺の季節です。
過日には、迂闊にもiPadをアップデートしたことにより愛用のテザー撮影のシステムが崩壊し、悩んだ末に人生で初めてのミラーレスカメラを導入しました。小柄なボディにアートレンズが装着された姿は、軽自動車でハイエースを牽引しているかの有様です。春は誠に動揺の季節です。
向島の老舗、長命寺桜もちの山本やには、隅田川沿いまでのんびり歩き、桜橋を渡り、三十分ほどの散策で辿り着く事が出来ます。たっぷりの桜の葉に包まれた関東風の桜餅は、素朴な気取りの無い皮と口当たりの良い餡の甘みに、桜の葉の清々しい香りと塩味が加わり、和菓子をこよなく愛する夫の大の好物です。
このフランス人が冬の間も桜餅、桜餅と騒ぐのを、桜餅は春に楽しむものだと諫めていますから、十個の桜餅を大事に携え三十分の帰路を再び、翌日の夜には完食されているわけです。
初めてこの桜餅なる菓子を夫に紹介した際には、桜餅には関東風の長命寺と、関西風の道明寺があること。長命寺の桜餅は特別に桜の葉が多く使われていること。長命寺には桜餅にまつわる小噺が伝えられていること…
桜もちのおいしい食べ方
以前、小沢昭一さんがお見えになったときにこんな小噺を教えてくださいました。 「ある人、桜もちの皮(葉)ごと食べるを見て、隣の人、 旦那、皮をむいて食べた方がいいですよ。 あ、そうですか とそのまま川の方をを向いて食べた」 川を向いて座れば、大川のゆったりとした流れと桜並木。どうぞ、そのまま春の日永をのんびりお過ごしください。 きっとそれが、桜もちの一番おいしい食べ方でしょう。
長命寺桜もち より
少し情報過多であったかもしれないと反省しております。特に、上に引用した小噺を伝える際には、この日本語のジョークに於いては、桜の葉を「皮」と呼んでいることが重要な仕掛けであり、皮/KAWA/skin は川/KAWA/river の同音異義語であること、更に、剥く/MUKU/peel or remove/と、向く/MUKU/face or turn, look, がそこに追随すること。つまり、ジョークを解体して説明すると言う、この世で最も不粋にして興醒めの試みをするわけですから、話し終わる頃にはこちらももううんざりして投げやりです。
そんないきさつで、ご近所の長命寺の桜餅は美味しい、と言うシンプルなる最重要事項以外がすっかり記憶から抜け落ちた夫に、今年は道明寺の桜餅をしっかりと舌の記憶に残してもらおうではないかと、渋谷は東急本店の地下へと出向きました。
折りしも三日の雛祭り。関東の大親分的老舗の出店に桜餅はと問うと「午前中で売り切れました」と笑顔がちくりと刺さります。
私は関西の出では無いのですが、京都人の従姉妹がおりますので、桜餅に関しては何故か道明寺の方に馴染みがあります。ようやく道明寺を食べられると内心ほくそ笑んで、あちらこちらのショーケースを眺めていると、歳の頃十歳かそこらの快活な女の子が私の傍らから同じようにショーケースに張り付いています。
見れば明らかにヨーロッパ系のハーフで、白いニットのツーピースがよく似合っています。ブルネットの髪のカチューシャも白、親御さんの入れ込み様が伝わります。しかしこの並びでは店員さんによる勘違いは必至、彼女も私の夫の存在に気付き、まじまじと見上げています。
そこへ追いかけ父親と見られるヨーロッパ人男性、お嬢さんと同じ髪の色です。やおら、流暢な日本語にフランス語のアクセントで「これはこし餡ですか?粒餡ですか?」店員さんも平然と「こし餡です」「良かった、娘はこし餡が好きなもので」
春の陽にほころびかけた染井吉野を見上げながら「旦那、皮をむいて食べた方が良いですよ」「そうかい、じゃあ」と清々と隅田川を眺めながら、フランス人達が桜餅を食む日もそう遠くない未来かもしれません。
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