昔はレーズンと言えばオイルコーティングが施されていたので、お菓子に使用する前に熱湯を回しがける工程が必ず見られました。
最近の、特に製菓用として販売されているドライフルーツにはオイルがかかっていないので、この手間を省く事が出来ます。
しかし私がわざわざぬるま湯の中でレーズンを揉みほぐすのを、相原先生は何故そんな事をするのと怪訝そうです。ぬるま湯の工程をしないものでも試作しましたが、やはり一度お湯を通した方が表面が柔らかくなり美味しいんです。そう答えると、先生は満足そうに頷かれました。その方が美味しい。それが全ての工程に於ける正解です。
しかし問題はもっと根本的でありました。
古いレシピを遡るほどに、英国式フルーツケーキの工程中には、ドライフルーツをラム酒に漬ける様子が窺えないのです。
このイギリスの善き伝統であるケーキは、又、各家庭に受け継がれた多様な様式があります。最も大きくは、まず蒸し焼き方式とオーブンで焼く方式に分けられるでしょう。
ドライフルーツの下ごしらえも様々で、煮出した紅茶に一晩浸したり、鍋の中で熱くしたバターと煮込んだり、それは魅力的なものばかりです。
ラム酒やブランデーが登場するのは、焼き上がりの生地に刷毛で塗り付けたり、中にはケーキにいくつかの穴を開けてラム酒を注ぐという方法を実践する人もありました。しかし、ドライフルーツをラム酒に漬けるという工程が見当たらない。
私がこの工程に拘るのは、三好正人氏のクリスマスのフルーツケーキには、奥様手製のドライフルーツのラム酒漬けが使われていた、と言う逸話からです。これを無視してしまえば、ケーキは別物になり、ノスタルジーは失われるでしょう。
フランスに於けるフルーツケーキ、ガトー・オ・フリュイにはラム酒漬けのレーズンが使われますが、これは英国式のそれとは全く味わいが異なり、生地はさっくりと軽く焼き上がり、ラム酒の香りは程よくケーキに行き渡ります。三好正人氏が宮川敏子先生に学ばれたのであれば、ラム酒漬けのドライフルーツはガトー・オ・フリュイの為であったのだろうか。
フルーツケーキに投入されるドライフルーツ、それは実に生地に対して200パーセントと言う重量です。どっしりと生地の締まった重厚な英国式フルーツケーキでは、それはほとんどドライフルーツの塊。ラム酒漬けでは仕上がりの酒気が強過ぎる。目下、それこそが悩みであったのです。
三好家に英国の風をもたらしたオーストラリア人青年のレシピが失われた今となっては、ラム酒漬けを巡る真相は謎のまま。
これが、私がたった一日ドライフルーツをラム酒に漬ける理由です。
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